横須賀は、入り江の港と横須賀城の城下町として栄えた町です。三熊野神社大祭は、この町の移り変わりとともに少しずつ形を変え、今の姿になりました。
このページでは、町の成り立ち、祭りの成り立ち、日程の移り変わり、戦争をこえて今に続くまでを紹介します。
横須賀の町の成り立ち
横須賀は、天然の入り江を港とし、横須賀城の城下町として発展しました。
入り江と港
15〜16世紀ごろ、横須賀から浅羽にかけては、太平洋につながる広い入り江でした。この入り江は「横須賀入り江」とも呼ばれ、天然の港として使われていました。室町時代から江戸時代の前期には、大型の木造船も出入りできたといわれています。
横須賀城の築城
天正6年(1578年)、徳川家康は部将の大須賀康高に命じて、横須賀城を築かせました。当時、武田勝頼に奪われた高天神城に備えるための城でした。入り江に面した城は、武器や食料を船で運び込むのにも便利な場所でした。
城跡は1981年に国の史跡に指定されています。城の築城とともに港も整えられ、江戸時代には城下町と港町を兼ねた町として栄えました。
宝永の大地震と港の衰え
宝永4年(1707年)10月4日、宝永の大地震が起こりました。横須賀の城下と周辺では、家屋の約9割が被害を受けたとされます。
この地震で、横須賀の一帯は1〜2メートルほど隆起しました。城下まで入り込んでいた入り江はなくなり、海は遠く沖へ離れました。港の入り口はふさがり、横須賀は港としての役目を失いました。
祭りの成り立ち
三熊野神社大祭は、神社の古い神事に、城下町の人々の練り物が加わって形づくられたと考えられています。
神事から始まった祭り
祭りの起源ははっきりしていません。古くから境内で行われていた田遊びなどの神事に、江戸時代になって祢里の行事が加わったと考えられています。
田遊び(たあそび)とは、1年の稲作の様子を演じて豊作を祈る芸能です。江戸時代後期の地誌『横須賀原始考』には、天正9年(1581年)に正月9日の恒例行事として田遊びが行われたと記されています。
「ねり」から祢里へ
城下の記録に「ねり」の名が初めて見えるのは、正徳4年(1714年)です。このころの「ねり」は、練り歩く仮装行列のようなものだった可能性が高いとされています。
山車と思われる祢里の記載が初めて出てくるのは、文化8年(1811年)です。19世紀には、今のような山車としての祢里が登場していた可能性があります。
祢里は高さ6メートルあまり、重さは約2トンにもなります。
江戸の天下祭とのつながり
天下祭(てんかまつり)とは、江戸の山王祭と神田祭のことです。将軍が行列を見物したことから、この名で呼ばれました。
掛川市は、享保年間(1720年ごろ)に横須賀城主の西尾忠尚が天下祭の祭り文化を伝え、今の祭りの原型ができたといわれていると説明しています。
囃子の始まりについても、次のような言い伝えがあります。
- 忠尚が江戸で老中を務めていたころ、家臣が江戸の囃子を習って持ち帰った
- 忠尚が参勤交代で神田を通ったとき、神田祭の囃子を聞いて持ち帰った
- 天保年間(1830〜1844年)に、江戸の深川囃子を習ってきた
一方で、祢里と天下祭の山車との直接のつながりを証明するのは難しい、という見方もあります。祢里の形は、江戸の天下祭を描いた絵巻の山車とよく似ています。ただし、江戸から伝わったことを明確に示す証拠は見つかっていません。
日程の移り変わり
祭りの日程は何度も変わり、今の「4月第1金・土・日曜日」になったのは平成6年(1994年)です。
| 時期 | 日程 |
|---|---|
| 江戸時代(当初) | 旧暦1月8・9日の2日間 |
| 江戸時代(のち) | 旧暦1月7・8・9日の3日間 |
| 明治43年(1910年)〜 | 新暦3月7・8・9日の3日間 |
| 大正5年(1916年)〜 | 新暦1月7・8・9日の3日間 |
| 大正10年(1921年)〜 | 新暦4月7・8・9日の3日間 |
| 昭和39年(1964年)〜 | 新暦4月8・9日の2日間 |
| 昭和41年(1966年)〜 | 4月第1土・日曜日の2日間 |
| 平成6年(1994年)〜 | 4月第1金曜日と翌日の土・日曜日の3日間 |
旧暦の正月の行事が、改暦を経て、桜の咲く4月の祭りへと移ってきたことがわかります。
戦争をこえて今へ
横須賀では、戦時中もほとんど休むことなく大祭が続けられてきました。
昭和12年(1937年)に日中戦争が始まると、翌年からは神事だけを行い、祢里は出さないことが決められました。昭和16年(1941年)から終戦までは、祢里の曳き出しを中止することが多くなりました。それでも、青年たちが祢里を曳き出し、それを総代会が黙認する年もあったといいます。
終戦直後の昭和20年(1945年)10月には、復興祈願の臨時の祭礼として12町の祢里が曳き出されました。翌年の大祭は、復員した青年も多く、それまでで最も大規模な祭りになったと伝えられています。
昭和22年(1947年)には、西大渕が初めて大祭に祢里を出しました。これで、今の13基の祢里がそろうことになります。
その後、平成17年(2005年)に大須賀町は旧掛川市・大東町と合併し、今の掛川市になりました。祭りを支える文化財の指定については「三熊野神社大祭とは」で紹介しています。
